Smile again







 唇の両端をきゅっと上げ、綺麗な三日月をつくる。胸の奥から湧き上がる期待に目はキラキラと輝き、顔中に喜びをあふれさせ、ピンク色のロボット、アーシーが走る。

 さほど遠くにいるわけではないのは判っている。すぐに見つかると知っている。でももどかしい。

 どこにいるの? もっと早く、少しでも早くあなたに会いたい。

 アーシーは研究棟をいくつか抜け、クリスタルで作られたオブジェが見えるのと同時に赤と白の後姿を見つる。嬉しさのあまり両手を広げて、唇の三日月を大好きな人に呼びかけるため崩す。

「サー!」

 あたりに明るい声が響いた。誰もいない広場で一人オブジェを見上げ、声をかけられた赤と白の人物は、くるりとアーシーのほうを振り返る。

 額の部品は欠けたまま、不機嫌そうに唇をへの字に曲げて、笑顔なんてここ百億年したことないような仏頂面をしている。

 その顔を見ると、アーシーの胸の辺りにあるモーターの回転がますます上がった。体温が上昇し、頬が熱くなる。

 ああ、もう。どうしてこんなに嬉しいの? あなたの顔を見ただけだというのに。

「アーシー」

 息を切らして正面まで行くと、名前を呼んでくれたのでもっと嬉しくなった。私今なら飛行ユニット無しでも空を飛べるんじゃないかしら?

「ここだったら、誰にも聞かれないでしょうか?」

 アーシーの大きな目がまわりを見渡し、邪魔するものが誰もいないと判ると、にっこりと微笑んだ。

「ラチェット」

 嬉しそうに、でも少しはにかんだ様子で名を呼ぶ。

 やっと言えた!

「皆の前であなたの名前を呼べないのがもどかしかった! 早くあなたの名前を呼びたくて、早くあなたに会いたくて、走ってきてしまいました」

 うふふと笑うアーシーから光がこぼれるようだった。素直な喜びに彩られたアーシーは美しく、生命力にあふれた目でラチェットを見つめる。

「別にワシは誰の前で呼ばれようとかまわんがね」

 ラチェットと呼ばれたロボットは、顔と同じく不機嫌そうなだみ声で応じる。

 その声も、ひねくれた喋り方も、アーシーの機嫌を損ねるどころか、体温をますます上昇させる。

「いいえ。いけません。人前で私があなたになれなれしくして、万が一にでもあなたのお名前に傷がつくようなことがあってはいけません。それは、できれば、私もいつもあなたの名前を呼びたいですけど、我慢できます」

 きっぱりと言い切ったアーシーに、ラチェットが片目を上げた。

 アーシーは、ラチェットは自分のような小娘に気軽に名前を呼ばれるような存在ではない。と固く信じているようだった。そんな事は無いと言おうかと思ったが、アーシーがあまりにもまっすぐな憧れの目でラチェットを見るので、タイミングを逃してしまう。

「会いにきてくださってほんとうにありがとうございます。私がすっかり元気になったところを見ていただきたくて」

 アーシーが言うと、ラチェットが軽く頷いた。

「元気そうで安心した」

「あの、もしよければ私を診察していただけると嬉しいのですが」

「もちろん。そのつもりで来たんだとも、アーシー」

 さぁ、座って。とラチェットはアーシーを促した。ここで? とアーシーが目を丸くすると、ラチェットは笑って、ワシぐらいの優れた医者になると、場所なんぞ選ばないんだ。と言った。

 ラチェットの医者の目がアーシーをスキャンする。見えるはずの無い心まで見られてしまうのではないかと思ってドキドキした。

 ラチェットの手がアーシーの頬に触れ、瞳の奥を覗き込む。

 あれこれと手際よくアーシーの状態を確かめるラチェットの手は、見た目の無骨さからは信じられぬほど繊細で、触れられると不思議な心地よさを感じた。

「あなたの手はいつも優しいです、ラチェット」

 うっとりとラチェットを見つめながらアーシーが言う。

「私がこうなって、初めてあなたの診察を受けた時に、私はあなたが素晴らしい名医だとすぐに判りました。ラチェット、あなたに触れられると、心地いいんです」

 アーシーの賞賛の声をラチェットは素直に受け取らなかった。診療を済ませ、異常はどこにもないとアーシーに告げた後、少し顔をしかめる。

「名医などと、わしを買いかぶりすぎだ、アーシー。現にワシは、おまえさんの消えた記憶を元に戻す事が出来なかった」

 ラチェットの言葉と、しかめた表情がアーシーの心に突き刺さる。

 機密情報の詰まったアーシーのブレインサーキット、それを狙ったロックダウン、すべてのオートボットを守るために、アーシーの記憶ごと機密を消したラチェット。

「私の事で、ご自分を責めていらっしゃるのですか?」

 自分の声がかたくなるのを感じた。

 私には判る。私はラチェットに記憶を消してくれと願ったはずだ。そしてラチェットはそうしてくれた。私は、ラチェットに辛い思いを強いたのだ。

「ワシはおまえさんのために最大限努力したが、ほんの少しの記憶しか取り戻す事ができなかった。ワシのできることなど、そんなものだ」

 記憶を消され、真っ白になったアーシーが一番初めに見たのは、絶望に目を見開くラチェットの顔だった。

 ラチェットは記憶を無くしたアーシーを抱きしめ、何度も謝った。

 アーシーは、自分がなぜここにいるのか、目の前の人物が誰なのか、自分自身が誰なのかも判らなかったが、自分を抱きしめる男が、とても悲しんでいる事だけ判った。

 どうか泣かないで、あなたはとても優しい人です。あなたが私に何をしたのか判りませんが、きっと仕方が無かった事なのでしょう。私はあなたを許します。

 そう言ったアーシーをラチェットはますますきつく抱きしめた。アーシーも恐る恐る手を伸ばし、ラチェットの背に腕を回した。その時に生まれたラチェットへの特別な感情を、アーシーは大事に育てている。

 後に、アーシーは、自分が記憶を失った事、その記憶は戻らない事を知らされた。

 記憶がなくなったのが辛くないといえば嘘になる。

 途方にくれたアーシーを支えてくれたのはラチェットだった。記憶を取り戻すための出来るだけの治療をし、アーシーを励まし続けた。

 アーシーが復帰を果たしてからも、なにかあれば力になると言ってくれ、こうして会いに来てくれる。

 ラチェットの優しさが嬉しい、だが、自分がラチェットの重荷になっているのではないかと思うと、不安で目の前が真っ暗になる。

「それは違います。ラチェット。私はこう考えています。私にはなにもなかった。その私に、あなたは記憶を取り戻してくれた」

「アーシー、おまえさんは強いな」

 ラチェットが言うと、アーシーがすがるような目でラチェットを見上げた。

「私はあなたを辛い気持ちにさせますか?」

 私を見ると、あなたが嫌な事を思い出すなら。罪悪感から私に優しくしてくださると言うのなら。私は、あなたの優しい手を離します。

 一つの決意を胸に、ラチェットの返事を固唾を呑んで待つ。

「いや」

 ラチェットは言って、軽く首を振った。

 ラチェットの目に、必死に自分を見上げるアーシーが映る。

「ほんとうに?」

「ほんとうに」

 ラチェットが繰り返すと、ようやくアーシーの顔が緩んだ。

「よかった……!」

 緊張していたアーシーが安心して笑顔になった。思わず少し涙ぐんでしまい、慌ててそれを隠す。

「次はいつお会いできるでしょうか?」

「お前さんはもう完治しているよ。わしが診る必要はもうない」

「そう、ですか」

 自分が診るのは患者だけ。そしてアーシーはすでに患者ではない。ラチェットは言外そう言っているのだと思った。アーシーの顔が曇り、表情を見られないように俯く。しばらく迷っていたが、決心して顔を上げる。

「ラチェット。私に対するあなたの優しさは、私個人にではなく、あなたの患者として向けられたものだと判っています。私があなたの患者で無くなった以上、それを求めるのはおこがましい。それはあなたを必要としている別の人に与えられるべきものですから」

 ですが、とアーシーは続けた。

「私に優しくしてくださらなくていいんです。ただ、私は、あなたに会いたい。それだけ許してくださいませんか?」

「アーシー、残念だが」

 ラチェットは、アーシーに言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。

「ワシはセイバートロンを離れなきゃならん」

「え」

 アーシーの表情が固まり、動きが止まる。

「ワシを必要としてくれる奴らがおるんでな。最後に気がかりだったおまえさんを診る事ができてよかった。これで心置きなく宇宙へいける」

 宇宙……?

 アーシーのブレインサーキットが、真っ白に侵食されていく。

 何を言っているの?

「軍医局長にご昇進されると聞きましたが?」

 堪えようとしても声が震える。

「ああ。断った。柄じゃない。辺境でデブリ処理屋どもの修理をしてるほうが性にあっとる」

 ラチェットは相変わらずのだみ声で言って、うるさそうに手を振った。その仕草が、アーシーにはやけにゆっくり見えた。意識だけが妙に研ぎ澄まされて、自分の物でないように感じる。

「ずっと宇宙にいらっしゃるんでしょうか?」

 反射的に言葉が口から出るのを自分でも不思議に思った。自分の声が遠く聞こえる。ラチェットの言葉が意味する事がなんであるか、本当は判っている。だが、ラチェットとの長い別れを認められない。

「ワシが必要とされなくなるまでな」

 ラチェットの返事に、アーシーが拳をぎゅっと握った。

 本気なのだ、ラチェットは。本当に行ってしまうのだ。

 会えなくなる。

「宇宙はとても危険だと聞いています……」

 最後の足掻きのように、小さく呟いたアーシーの目を覗き込み、ラチェットが言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。

「アーシー、今一番ワシを必要としてくれているのは、戦後処理をしている連中でな。奴らはこのセイバートロンの復興のために危険な仕事をしている。命に関わる怪我などしょっちゅうだ」

「はい」

 ぼんやりとした、どこか視線が定まらないアーシーがこくりと頷く。

「軍医局長など、ワシ以外の誰でも務まる。ワシしかいないと頼まれるなんて、医者として名誉な事だろうが! 命知らずどものためにワシがなんとかしてやらんとな!」

 大きく両手を開き、大げさな仕草と共にラチェットは言った。

 冗談めかしたラチェットの仕草を見ても、アーシーの唇に笑みは戻らない。

 ふと、アーシーは、頬にラチェットが触れた時の心地よさを思い出した。

 あなたの手が心地よいのは、患者の事を親身になって考えているから。心の底から、救いたいと思っているから。そのためには、自分の力を惜しまないから。

 やさしいひと。だから私はあなたを好きになったの。だからあなたは宇宙へ行くの。

「判りました。とても、あなたらしいと思います、ラチェット」

 アーシーは顔を上げ、微笑んでみせた。ラチェットを安心させるように。

「私、ますますあなたの事を……尊敬します」

「尊敬? とんでもない。ワシはただ我侭なだけだ。やりたいことしかしていない」

 大げさに肩をすくめ、とんでもないと言うようにラチェットが手を振った。

 アーシーがもう一度微笑み、先ほどから手にしていた小さな包みを差し出す。

「ラチェット、これを受け取ってください。本当はあなたの昇進のお祝いだったんですけど……。お別れのプレゼントに」

「ありがとう。遠慮なく受け取っておくよ」

「私の事、忘れないでください」

「ワシがお前さんを忘れるものかね、アーシー」

「ラチェット!」

 ラチェットが照れくさそうに言う仕草が可愛くて、アーシーは思わずラチェットの首にしがみ付いた。

「どうかお元気で」

 ラチェットに抱きついたままアーシーは言った。

「ここへ戻ってきた時は、真っ先におまえさんに会いにくるよ」

 ラチェットの言葉に、アーシーがラチェットから離れ、顔を見上げた。

「ですが、もう、私に治療は必要でないと」

「アーシー、ワシは理由が無いとお前さんに会いに来てはいけないのかね?」

「いいえ!」

 間髪いれずにアーシーが大きな声で叫んだ。その勢いにラチェットが思わず仰け反る。

「嬉しいです、ラチェット。私はあなたに会ってもいいんですね」

 胸がいっぱいになったのか、言葉を途切れがちにしながらアーシーが言うと、ラチェットが苦笑した。

「バカを言うな」

 どうもこの娘はワシを過大評価したがる。そう思ったが、悪い気はしない。

「また会おう、アーシー」

 ラチェットが珍しく笑いながら言った。アーシーはその笑顔を目に焼き付ける。

 たくさんの記憶を失ったけれど、私は素晴らしいものをたくさんもらった。

 そう思うと、感謝と嬉しさで胸がいっぱいになり、綺麗にお別れしようと思っているのにうまくできない。

 気の効いた言葉も出てこず、ただ、頷いて返事をするのが精一杯。

「はい、はい……!」

 心から嬉しそうに頷くアーシーの笑顔を、ラチェットも大切に保存した。


                            
                                  ENDE.



ラチェット×アーシーが好きだ!


初出 20080525発行  ASTROMANTIC

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